風土の美学と地域づくり
桑子 敏雄
文学博士
東京工業大学大学院教授
環境・生命・情報の問題が融合する21世紀の価値の領域を分析し、解決のための理念とその制度化のプロセスを社会に向けて提案するとともに、日本・東洋・西洋の哲学研究を問題解決のために知的資源として活用する道を探索している。
九州柳川の堀割を埋め立てから守り、地域づくりの先頭に立ってこられた広松伝氏は、こどもたちの感性をはぐくむ地域づくりの根幹は、「現場に立って全体を見ることだ」と語っておられる。このことばは、地域にとって何が一番大切なものかということを考え抜き、行政内部および行政と市民との間の困難な合意形成に立ち向かって解決してこられた広松氏ならではの重みをもっている。
「現場に立って全体を見ること」は、広松氏の深い経験にもとづくことばではあるが、風土の美学と地域づくりというテーマのもとで見るとき、これからの地域づくりにとって重要な視点を提供しているように思う。そこで、わたしは、このことばの意味をやや哲学的に解釈して、風土の美学と地域づくりのために敷衍し、豊かな風土を実現するための「日本の国土にふさわしい合意形成プロセス」の理論化に向けて考察を進めたい。
まず、「現場に立って全体を見る」ということをわたしの考えに立って理解してみると、現場に立つということは、身体をもって空間のなかに身を置き、風景と対峙するということである。風景は、空間のもつ相貌であり、相貌を知覚する個々の人間にとって、その姿をさまざまなに示す。しかし、だからといって風景は主観的なものではなく、主観的でないからといって物理的対象のように客観的なものでもない。風景は人間のもつ感性の領域にその成立の根拠をもち、主観と客観の二分法を超越する。
だが、人間は、風景を評価するためにさまざまな理論的根拠や制度的制約の上に立って判断を下す。美しい風景とは何か、美しい風土とはどうすれば作れるかなどとを問うときに、知覚と行為を支配するさまざまな機構を動員するからである。しかし、これらの機構によって制約された視点で見た風景は、その全体像がきちんと捉えられるわけではない。むしろそれぞれの視野から切り取られた部分しか見えてこないのである。見えているのは、それぞれの理論によって捉えられた風景、制度によって制約された価値判断にもとづいた風景である。このような状態では、「全体を見る」ということはできない。理論や制度の制約を脱ぎ捨て、風景の価値を捉えるにはどうしたらよいか。その方法を広松伝氏の「現場に立つ」ということばが表現している。
風土は全体性を身体的に捉えることを要求している。その意味で、感性を働かせることがなによりも重要である。わたしの考えでは、感性とは自己の空間的配置と履歴を捉える能力である。現場に立ち、自己と空間とのかかわりの意味について考え、風景を成立させてきた空間の履歴を捉えることが必要である。
風土の美を創り出す力もまた、現場に立って全体を捉えることのできる力にもとづいていなければならない。創り出すことは、たんなる知覚ではなく、行為である。では、行為に「現場に立って全体を見る」力をどう活かせばよいのだろうか。この問いは、感性のもつ創造性という困難な問題へと繋がっている。わたしの考えでは、風土にかかわる創造性には、地域にかかわる多くのひとびとの協働作業が必要である。そこに求められるのは、地域づくりに求められる創造的な合意形成のプロセスである。この創造的な合意形成プロセスに参加する人々もまた、現場に立って全体を見る力をもたなくてはならない。