土砂崩壊と流域管理
高橋 裕
工学博士
東京大学名誉教授
芝浦工業大学名誉教授
河川工学の第一人者であるとともに、河川・水資源工学に歴史的・文化的視点を導入し多方面で活躍。
火山噴火と大水害
火山国であるわが国では、火山噴火が大水害の原因となるいくたの例がある。天明3年(1783年)の浅間山大噴火は火山史においても重大事件であったが、それが利根川の治水と水害の歴史を一変させることとなった。
この火山爆発が浅間山の北斜面の鎌原村をひとのみにしたことは有名であり、いまや観光名所にさえなった鬼押出し、烏川合流点付近の家屋敷の石垣や利根川沿いの各地に点在するアサマ石などもその名残りである。この大量の噴出物が大小洪水によって長年にわたり、吾妻川を経て利根川本川をさらに下流へと運ばれ、利根本川の河床を全面的に上昇させた。1786年の江戸時代最大の利根川洪水をはじめ、以後利根川洪水の頻度が著しく増したのも、天明噴火による大量の土砂流出が原因である。
宝永4年(1707年)富士山大爆発が宝永山を誕生させたことは有名であるが、それによる大量の流出土砂によって、富士山東部の酒匂川の河床を一挙に上昇させた。翌1708年6月、酒匂川大洪水が発生、足柄平野は全面的に水没、農地は大被害を受けた。関東郡代伊奈半左衛門忠順は農民救済に奔走したが、それが彼を切腹に追い込む悲劇を生んだ。このように火山爆発は、川とそれにかかわる人々の運命を変えてしまう。しかも火山爆発の予知は地震のそれよりも困難であることを銘記すべきである。
水源地大崩壊と土砂災害
安倍川源流の大谷崩れは、慶長9年(1665年)の東海・南海・西海大地震による崩壊に端を登するとも云われている。宝永4年の大地震によって本格的崩壊を起こし、元禄豪雨がその崩壊に拍車をかけたと云われている。この大谷崩れが、それ以降の安倍川の治山治水と水害に決定的影響を与えている。
大谷崩は水平面積1.8ku、幅1.8km、高度差800m、崩壊土砂量1.2億㎥であり、立山の大鳶崩、北安曇の稗田山崩とともに日本三大崩れと云われている。
安倍川は宝永大崩壊後の洪水ごとに土石流となって流動し、安倍川上流の河床に大量に堆積し、段丘礫層を形成している。それが安倍川の河状を不安定にし、以後の洪水形態を複雑化し、安倍川治水を困難にしている。
常願寺川の大鳶崩は安政の飛越地震(1858年)による立山カルデラ壁に発生した大崩壊である。この崩壊によって山間の谷は厚く埋積され、以来洪水ごとに大量の砂礫を運ぶ典型的荒廃河川となった。この難治河川に対し、大正末期から赤木正雄が立山砂防に献身的努力を重ね、常願寺川上流は砂防のメッカと云われている。一方、川の神様と呼ばれる鷲尾蟄龍も常願寺川の治山治水に尽力し、第二次大戦後は橋本規明が河川改修に新機軸を打ち出し、いくたの新河川工法がここで生まれた。
急流荒廃河川の土砂対策
上述の常願寺川と安倍川は、それぞれ富山、静岡の急流河川群の代表であり、急流といわれる日本の河川のなかでも、特に急流である点で共通している。この両県河川はともに日本の屋根といわれる南北の日本アルプスから日本列島周辺でも特に深い駿河湾、富山湾に突っ込むために、急流中の急流である。さらにはその流域は大量の雨雪地帯である。その条伴下に前述の大規模崩壊によって、典型的な難治の川となったのである。したがってこれら河川の治山治水と水害の実態を究めずして、日本の河川を語ることはできない。
土砂対策は全流域一貫の対応が必須
日本の諸河川は流路延長が短かいために、特に上流水源地の崩壊から下流、河口、沿岸域まで著しい影響を及ぼす、したがって、砂防ダム湖堆砂、砂利採取、ダムや堰の河床変動への影響、河口閉塞、河口部周辺の海岸欠壊などは、個々の対策でなく、一貫した思想によって統一的に把握し、一元的土砂対策を計画すべきである。さらには下流周辺都市の治水対策も、全川、全流域を視野に入れ、地域計画、都市計画に治水、氾濫原管理、水資源対策、そして河川環境、河川景観対策を統一的思想のもとに立案をせねばならない。