■ プロローグ ■

奈良朝時代、百済(くだら)の国に起こった内乱 *1は激しさを増す一方でした。とうとう、国王禎嘉王(ていかおう)は家族とともに百済の国を離れる覚悟を決めました。

 「愛する妻と王子達のためには、もはや平和な日本へ逃れるしかないのだ」。

夜の暗闇の中禎嘉王之伎野(しぎの)、三人の王子福智王子(ふくちおうじ)華智王子(かちおうじ)伯智王子(はくちおうじ)、そして王の家来とその家族を乗せた一艘の船は誰にも気づかれないよう、静かに百済の国を出発しました。だんだんと小さくなっていく母国の灯を見つめながら王は涙を流しました。
長い船旅の末、ようやく安藝(あき)厳島(いつくしま)にたどり着きましたが、この地はあまりにも狭く追手が来れば、すぐに見つかってしまいます。そのことを恐れた一行は再び船に乗り南へ向かうことにしました。しかし、百済から乗ってきた船はもうぼろぼろで、この地で手に入れた二艘の小さな船に分かれて乗るしかありません。父と同じ船に乗り込もうとした第一王子福智王子を止め、王は言いました。
「おまえはお母さんと一緒にあちらの船に乗りなさい。第一王子として皆の中心となり、皆を守り、日いづる国日向ひゅうが)へと無事に連れていくのだ。」

こうして一行は二艘の船に分乗して外海に出た一行でしたが、なんということでしょう、日本の南の海はひどい暴風雨、一行を乗せた二艘の小さな船は離ればなれなってしまったのです。

Adobe Systemsそして、禎嘉王と二人の王子を乗せた船はお金ヶ浜*2(かながはま:日向市)に、福智王子と母之伎野を乗せた船は、蚊口浦*3(かぐちうら:高鍋町)に九死に一生を得てたどり着いたのでした。

1)[百済王漂着伝説について] 奈良朝時代,百済の国に内乱が起こり国王の禎嘉王の身辺にも危険が迫ったので,福智王子,華智王子らとともに,多くの侍臣を従えて,日本へ逃れてきた。はじめ安藝の厳島への足跡を著した伝説が残されている。

2)[金ヶ浜] 現在まで行われている、福知王が禎嘉王を尋ねる祭りといわれる「師走祭り」では、以前まで第一日目に美々津に宿泊していたが、その後比木出発後初めて立ち寄る場所となった。ここで禊を受ける祭事がある。三、四人が砂浜でお祓いを受けまず海に走りこみややあってから幟や御神体(袋神)や幣を持って再度海水に体を浸すというものである。また、みそぎがすむとコヨリで輪を作る儀があり、安産のお守りとされている。出産の時これで腹をなでると安産したそうである。

3)[蚊口浦] 高鍋町小丸川の河口の地名。「河口(かわぐち)」から「かぐち」と読まれるといわれる。また、近くに墓地があり「蚊」がたくさんいたためこの字をあてたと考えられている。