※次の記事は木城町が隔月に発行している「広報きじょう」に文化財よもやま話として掲載されたものです。 | |
町を代表する神社である、比木神社は、オホナムチノミコト、ミホツヒメノミコト、スサノオノミコト、クシイナダヒメノミコト、コトシロヌシノミコト、などの神を祀っており、のちに百済王の一族である、福智王(ふくちおう)も祀られることになります。 創建の年代は不明ですが、1197年(建久8年)日向国の新納院(にいろいん)の総鎮守として崇められてきました。また、1687年(貞亭4年)「高鍋藩寺社帳」によると、社殿の修復、鳥居の建立などがあり、それに掛かる費用は藩で賄ったりしていました。その後、1869年(明治2年)比木大明神と呼ばれていたのを、比木神社と改称することとなりました。 この比木神社の由緒の一つに、百済王伝説が知られています。この百済王伝説とは、663年、朝鮮半島において起きた、白村江(はくすきえ)の戦いにおいて、当時の古代国家である、百済が、中国の唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に攻め滅ぼされところから始まります。その百済から日本に亡命した王族は、大和政権を有する畿内に定住していました。しかし、政権内の動乱により再び船に乗り、海路を南にとりました。しかし、その途中で、一行は、台風にあい、漂流してしまい、父の禎嘉王(ていかおう)一行は、金ヶ浜(日向市)に、息子の福智王は、蚊口浜(高鍋町)にそれぞれ漂着しました。そこでそれぞれ奥地に入り山路を辿って、禎嘉王は南郷村の神門、福智王は木城町の比木にそれぞれ仮に宮居を定めました。その後、しばらく平穏な生活をそれぞれしていましたが、やがて、日向国で潜んでいることが、百済の賊徒に伝わり、そこから、兵乱が始まります。その影響で、命を落とした、禎嘉王を南郷村の神門(みかど)神社に祀り、争いが終わってからもしばらく生き長らえた福智王については、比木神社に祀られることになりました。 この比木神社、神門神社については、上記の伝承から、それぞれ特殊な儀式によって今でも繋がっております。それは、旧暦の師走18日前後の金土日に行われる、神門御神行祭(師走祭り)であります。これは、福智王を祀る比木神社の一行が、年一度美々津、日向、東郷を経て途中神楽や各種行事を重ねながら、父である禎嘉王を祀る神門神社まで向かいます。かつては、10日ほどかけて行っていましたが、現在は自動車を使って2泊3日の日程で行われています。 これらの百済王伝説については、あくまで伝承であって、これが実際、文献資料や考古資料では、未確認の要素が強いです。しかし、遠い過去の伝承を現在まで神社・仏閣の行事に絡めて継続していることは素晴しいことであります。価値観の多様化、より一層、社会のIT化が進むなかで、一つの歴史ロマンを未来永劫に伝えていくのは大切なことであります。今後とも残していきたい伝承、祭りであるといえるでしょう。 (参考文献)「木城町史」(社会教育課 白岩 修) |
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比木神社 | 比木五輪塔 |
百済(くだら)王伝説とは、六六三年、朝鮮半島において起きた、白村江(はくそんこう)の戦いにおいて、当時の古代国家である百済が、中国の唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に攻め滅ぼされたところから始まります。その後、百済王族は、日本に亡命し、禎嘉(ていか)王が日向の金ヶ浜、息子の福智(ふくち)王は高鍋町の蚊口浜に上陸しました。禎嘉王は南郷村の神門神社を、福智王は比木神社を安住の地とし、これが有名な百済王伝説となりました。この百済王に関する五輪塔が比木神社の近くに祀られています。 この五輪塔は、仏塔を象形化したものであり、古代インドの宇宙観を意味しています。また、全国でも数多く見られています。比木の五輪塔もこの形であり、比木地区の畑の奥にひっそりとその姿を残しています。製作された時期などの詳細な点は不明でありますが、この百済王伝説に対する畏敬の念がこのような石造物を作らせる背景になったのではないでしょうか。 この比木五輪塔の法量は、高さが一五一p、幅が六四p、台部が幅一一○p、奥行九○pあります。素材は加工石と思われますが、詳細なところは不明です。また、石材の表面を観察すると球形部分の石材と台部のそれに違いが見られます。これは、石材自体が違うものか、後の時期に一部の石材を入れ替えたのかなどが考えられますが、詳細は不明であります。いずれにせよ、この比木五輪塔は、百済王族である禎嘉王の長男福智王の墓として今日まで伝えられています。 また、同じ敷地内には、高さが六三.七一pと少し小さめの五輪塔が三基並んで見られます。これらについても、製作時期、製作者などは不明でありますが、比木五輪塔で祀られている福智王に関連する人の墓であることも考えられます。いずれにしてもこれらの五輪塔は、以前は盛大な祭りがこれらの前で行われていました。 また、現在、東九州自動車道建設に伴う発掘調査が実施されていますが、その中の野首第一遺跡(高鍋町宿ノ坂)において、五輪塔や板碑が複数にわたり確認されています。これらは以前の県道木城・高鍋線の改良工事のため、現在の位置に移設されました。これらについては、福智王の妹を祀っているという伝承が地元の人々に伝えられています。そして、ここの遺跡では、一部削平された横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を持つ円い古墳が見つかっています。この石室は百済方面から製作方法が伝わってきたもので時期が近いこともあり、この百済王伝説と何か関連があることも考えら れます。 以上のように、遥か遠く百済から日本に亡命してきたと言われる百済王伝説とその五輪塔、これらについては、歴史的ロマンを感じさせながら、今日まで色あせることなく伝えられています。 (参考文献) 1 『木城木町石碑・石塔めぐり』 木城史友会 平成九年 2 『野首第一遺跡』 宮崎県埋蔵文化財センター 平成十六年 (教育課 白岩 修) |
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