■ 2.母との別れ ■

服を乾かした福智王子は、食料を探しに行くことにしました。これまで見たことのないような風貌の一行を、里人は家の中からこっそりと見ていました。どうやらお腹を空かせている様子、気の毒に・・・。そう 思いながらも自分たちも小丸川の氾濫で田畑を流されたばかり。しかも相手は今まで見たこともないような奇妙な格好をした人たちです。

「すみません、食べ物を分けて頂けませんか」

必死で戸を叩く王子でしたが、どの家も戸を堅く閉ざしたままです。

「皆のため、あきらめるわけにはいかないのだ・・・。」

ふらふらになりながら、戸を叩き続ける王子の姿を見かねて、永友(ながとも)という名前の *5主人がとうとう扉を開けました。

「お気の毒に。異国から逃れてこられたのですね。しかし、いつまでも茂広毛(もひろげ)にいては追手が来たときにすぐ見つかってしまいますよ。」Adobe Systems

「もひろげ?あの場所は茂広毛(もひろげ)というのですか?」

「はい。あなた方が裳(ころも)を広げて乾かしていたでしょう。あの日以来、里人はあの場所を“もひろげ”と呼ぶようになったのです。」

永友家で食料を分けてもらった日以来、他の里人も少しずつ、王子達に近づくようになりました。禎嘉王と王子の二人の弟が無事に上陸して神門(みかど:南郷村*6というところに住んでいることを知った里人は早速王子に知らせにきてくれました。そして、その神門という場所は目の前を流れる小丸川をずっと上流にいったところだということです。

王子は父と弟の無事を聞いて大変喜びました。別々の地に流れ着いたけれど、図らずも父と弟は、母と自分と同じようにこの小丸川のそばで生きている。一つの川の流れが自分達家族を繋いでいる、そんな気がしました。父の居所をおしえてくれた里人に福智王子達は無事であることをつたえてくれるようにたのみました。そして自分たちもそろそろ身を落ち着ける場所を探さなくてはならないと考えました。幼いときから占術に長けた福智王子は、大切に持っていた珠(たま)を投げて自分の住むところを占いまし *7

「母上、私が住むべき場所を占いました。小丸川の流れが険し*8山々をくぐり抜け、平地へと流れ出そうとする比木(ひき)というところでちょうど珠は止まりました。父上はその険しい山々の向こう側、小丸川の上流にいます。比木の地に行けば、敵が攻めてきた時下流で戦って父上を守ることができます。私たちは早速そこへ向かいますが、母上はここ *9に残って安全なところへ身を隠してください。」  母之伎野は立派に成長した息子を頼もしく思いました。そして、自分がこの地に残る方が息子のためになると、離ればなれになる辛く寂しい気持ちをおさえて大きく頷きました。

Adobe Systems5) [永友家]お里まわりの際は必ず立ち寄り、礼を尽くすという。永友家で隣家谷口家からお茶をもてなされる

6)[神門]宮崎県南郷村神門。百済王伝説では、金ヶ浜に漂着した禎嘉王一行がその居住地を占ったところ七十八里(百済里)隔たる山中が良いとでたとあり、その場所が神門といわれている。神門神社は元来山の神で大山祗命が主祭神。宮崎県木城町の比木神社含め、禎嘉王や福智王をあとから合祀したのは、医学を初めとする文化を土地に伝えたため自然と崇拝されるようになったものと思われる。

7)[比木]宮崎県木城町比木。百済王伝説では、『蚊口浦に漂着した福智王子が留住の地をトしょうとして珠を地に投じ、十八里(一里は約六町)の地に飛走して止まりその地に往って住んで、よってその所を「ひき」(=みちびきの意)と日う』とある。都農神社の長友司宗義という宮司が天保三年に書き残したものに、「因名其所比弃(棄)蓋取諸郷導之義」とあり、由来は、「導いた」との意と記されている。また、一方、黒水川との合流点をしめす「ひき」地名とも考えられる。始め「比弃」と書いたが仁寿二年(852年)「火木」に火事が多かったため弘安七年(1284年)「比木」に改められた。

8)[蛇ヶ淵伝説] 比木神社の渡り殿天井には、龍が描かれている。絵師が構図に悩んでいた時、美しい姫が現れ、「想像でかくのは難しいだろう」と大蛇と化し、小丸川の淵に消えていったとの伝説が残されている。一般に大蛇や竜伝説は、全国でも流れが厳しく氾濫が多い河川流域に見られ往事の小丸川の様子が伺える。又、蛇ヶ淵(比木神社裏小丸川上流六百米北)は度々雨乞いが行われる神聖な場所でもあった。十一月十四日に行われる「裸ホイホイ詣り」では、この淵で若者が裸で水浴し身を清める。

9)[鴫野]高鍋町鴫野。福智王子の母、禎嘉王妃「之伎野」が住んでいた事からついたと言われる。