■ 9.愛が溢れる里 ■

福智王子が亡くなると、里人は大変悲しみました。そして、父や母への愛を大切にして、年に一度の対面を楽しみにしていた福智王子を思いだしては涙を流しました。死後福智王子を比木神社*22木城町)に祀りました、父禎嘉王と第三王子伯智王は神門神社(南郷村)に、第二王子華智王は伊佐賀神社(東郷町)に、母之伎野は大年神社(高鍋町)に祀られていました。離ればなれの地に葬られている親子が不憫でなりません。

福智王子様を年に一度、お父さんとお母さんに会わせてあげようじゃないか!」

福智王子が祀られている比木から、父禎嘉王がいる小丸川上流の神門までは大変遠い道のりですが、その意見に反対するものは誰もいませんでした。対面は年に一度、旧暦の師走の時期に十日間もかけて行われ、師走 *23とか、神門御幸と呼ばれる祭になりました。神様となった福智王子を連れた比木からの一行を、禎嘉王にお世話になった神門の人々も大歓迎し、第二王子華智王子が祀られている伊佐賀(いさか)神社まで毎年出迎えにやってきました。そして伊佐賀神社からは比木の人々と神門の人々が家族の対面を祝いながら、父禎嘉王が祀られている神門神社へと共に向かいました。

福智王子と母之伎野との対面も年に一度行われ、「大年下 *24という祭になりました。かつて福智王子が母を訪ねた時持っていった餅に見立て、祭の一行は浜から石を二つずつ拾って神社の鳥居そばの石塚まで運びます。そして之伎野が王子を家に入れなかったように、福智王子の御神体は決して鳥居の中に入れません。また大年下(おおとしくだり)の際、福智王子の姫が亡くなった宿の坂を通る時は、姫がついてこないよう笛や太鼓の音をとめて静かに通るようにしました。
福智王子が最期に言い残したお世話になった人へのお礼廻りも里人達は毎年行いました。そのお礼廻りは、“里廻り” *25という祭になりました。ある年、この祭を二階から見ていた里人の家が火事になったことがありました。神様を上から見下ろしたから罰があたったのだと言われ、その家には次の年から祭の一行が必ず立ち寄るようになりました。


里人は、福智王子の感謝の気持ちを表すお里廻りを続けながら、よその土地からやってきた人々を暖かく受け入れた人間的愛溢れる自分達の里を誇らしく思いました。そして、親思いの福智王子のための祭は、家族愛の大切さを親から子、子から孫へと伝え、里はますます愛に満ちた場所として発展を遂げていったのです。

22)[比木神社] 比木神社南側の墓地内に、福智王子の墓と言われる五輪塔がある。また、比木神社は、福智王子および妃が祀られ、比木神社境内には福智王子の子を祀る若獅子神社、宰臣を祀る一宮、社殿横前には、福智王の乳母だった紅梅殿を祀る紅梅殿跡がある。一方、紅梅殿については、「禎嘉王が連れてきた内侍十二人・乳母紅梅殿の墓は神門村にあり、神門大明神の末社の小社は、大歳大明神、内侍、紅梅殿等を祀る」ともある。また、福智王子の姉(または妃)は高鍋町の宮田神社に祀られているとも言い伝えられている。

23)[師走祭り] 「神門御幸祭り」とも呼ばれる。日本では大変珍しい袋神様を奉した福智王を祀る比木神社の一行が、年に1回旧暦12月18日〜20日ごろの金土日に、道中で幾多の百済伝説に因む祭典を行いながら父禎嘉王を祀る南郷村神門神社に向かい、また帰還する祭り。かつては、九泊十日であったが今日は自動車を利用して二泊三日で行われる。
一行は十八人で、比木神社を出発し、金が浜の禊ぎの神事をはじめとして、神門神社までの行程、様々な行事をとりおこなう。伊佐賀神社では、禎嘉王の袋神が出迎え落ち合う。火の饗宴、衣類の洗濯をする意味というマタケン瀬での祭典、二個の石を石塚に投げ込む行事、川の土手に火を付ける行事、稲穂渡しの義、夜神楽(十八番)等。神門には一日滞在する。比木への帰還するときには、お互いの顔に灰黒を塗り合うヘグロ塗り、そして見送りの行事が行われる。最後は遠く比木に去りゆく一行を炊事道具を手に高く持って振って「おさらばー」と繰り返し別れを惜しむ。流れる笛の音のもの悲しさがこの一年に一度しかないこの家族対面のうれしさと別れのつらさを感じさせる。

24)[大年下り] 高鍋町の大年神社(以前は大歳神社)に、年一回11月4日(古くは旧暦十一月初申の日)に行われるご神幸。師走祭り同様袋神がお出ましになる。福智王子が之伎野に年一度訪ねに行くと言われている。また、このご神幸により、その後行われる師走祭りでは、福智王子だけでなく母と揃って神門行きするとも言われている。大年神社への到着前、鴫野の海岸で一重ね(二個)の浜餅(浜石または歳の餅ともいう)と称する石を拾い神事の後お旅所の石塚に投げ込まれる。師走祭りで小丸川原の石を石塚に投げ込むのと同じである。祭典はすべて鳥居の外のお旅所で行われる。ご神幸の際は、各所を巡遊し接待の行事があり夕刻比木に帰社する。

25)[お里廻り] この地に漂着した福智王子が大変難渋をした時、この地の人々は丁寧に迎え、切にもてなした。福智王子が比木に居住するようになってから数年後、お世話になりもてなしを受けた家に対しての訪問され御礼の言葉を申し上げたと言われ、これが今日までお里廻りの神事として続いていると云われている。立ち寄りでは神札を配り神楽を舞い接待を受ける。廻る家は、長い年月の間に一部変動はあったものの二十箇所程度の廻る家は決っている。過去二泊三日だったが、現在、一泊二日の行程で行われている(10月28日〜29日に近い土曜、日曜)。福智王子の姉を祀る宮田神社や高鍋城も訪れ、高鍋城では秋月家からの神饌が奉られた。永友家では、暫し休むが、主人不在だった際隣家の谷口家がお茶を差し入れたら福智王子が大変満足感謝し、以後永友家に立ち寄る際お茶は谷口家より差し入れるとの逸話も残されている。明治中期まではシャンシャン馬という装飾された馬もでていたという。