■ エピローグ ■
さて、その後の小丸川の里の様子をちょっとのぞいてみましょう。
戦国の世、小丸川周辺は島津氏や大友氏などが覇権を争う地となりました。天正六年と十五年、二度にわたる大きな戦いがあり、特に天正十五年の戦いの時、木城町の高城は豊臣率いる二十万の軍に包囲されました。しかし、山田新介有信がたった千五百人の兵で奮戦し、高城は難攻不落の山城として世に知られるようになりました。
そして、小丸川の里にはもう一つ難攻不落の城がありました。あの大亀が住む石河内に築かれた石城です。高城の合戦の前哨戦として、石城に拠った長倉裕政、山田宗昌等の伊東氏の残兵に対し、天正六年七月(旧暦)島津氏が攻撃を行いました。この戦いで死傷者五百余人を出した島津軍は、攻撃をやめて兵を引き上げました。
このお話を読んでいるみなさんにだけこっそりお教えしますが、実はこの戦いの時、石城の下の大亀が四足をふんばって高く城を持ち上げたので、敵は城を攻めることができなかったのです。しかしその後、石城の城主が堀割を工事している時にあやまって大亀の首を切ってしまい、それ以来城が持ち上がることは二度とありませんでした。
大亀はいなくなってしまいましたが、この石河内城が不思議な魅力を持つ場所であることに変わりはありません。大正七年武者小路実篤*26が、この場所に日向新しき村を開村したのです。実篤は、東京帝国大学中退後、文芸誌「白樺」において「新しい生活に入る道」を発表し、これに賛同するものが集まり「新しき村」開村をスタートさせました。新しい社会をつくる。そのためには先ず土地が必要でありました。いろいろ候補がありましたが、どれも断念しその時頭に浮かんだのが「日向」だと言われています。そして、石井十次が開いた茶臼原孤児院に行き、津江市作という人に会いこの地を紹介されました。この地を選んだのも小丸川の流れが美しかったからとも言われています。
「天に星、地に花、人に愛」、「山と山が賛嘆しあうように、星と星が賛嘆しあうように人間と人間が賛嘆しあいたいものだ」このような素晴らしい言葉を残した武者小路実篤は人間尊重・人間愛の思想の実現、また人間が人間らしく生きられるユートピアの実現に最も相応しい場所として、愛に満ちた小丸川の里を選びました。実篤はこうも言っています。
「だから僕は人間的愛を、実に賛美し、それがますます生きることを望んでいるのだ。」と。
江戸時代になると、この地を秋月家が治めるようになりました。ここが豊かで美しく愛にあふれる地になるもととなる善政を数多く施しています。
第四代藩主秋月種政は、財政を豊かにするため、積極的に溜池・堤や用水路をつくり水田の増加を図り農政の充実に努め、第五代種弘も父の意志を継承し行いました。谷坂堤は、高鍋藩最初の堤として今も見ることができます。また貯水池築構の祖とも呼ばれる河内山清八 *27は、創意工夫により人々が使いやすい水路を設計したといわれています。さらに小丸川や宮田川の氾濫は農作物の被害はもとより家屋や人命にもかかわるため、堤防を堅固にし、川水をせきとめるなどの川除工事を行いました。
また、農業の生産性を高めるため特に馬を重視し牧場を開設しました。当時『日向の駒は天下第一』とも呼ばれていました。また、蝋燭の原料となる櫨(はじ)の実や製紙の原料の梶(かじ)・楮(こうぞ)、また、漆、棕櫚(しゅろ)や茶、桑など主食以外の換金性の高い作物の栽培を奨励し、藩の財政を豊かにさせるとともに農民の生活をも潤しました。
また、第七代藩主種茂は、なおかつ農民の生活が苦しいことから多くの子供を持つ農民に扶助料の支給を始めました。これは今でいう児童手当で、このことは当時先進の欧州諸国でも行われておらず世界の先駆けと言えます。百歳になったお年寄りには生涯一人扶持を贈るなど福祉をも行い廃藩まで続けられたと言われています。教育にも熱心で人材育成のための学校建設を進め、明倫堂を開設しました。その理念は自ら推敲し教育方針として定めた明倫堂記として残されています。また、この明倫堂は、数々の優れた人物を輩出しています。
そして明治時代になると、小丸川の里はまた一人の「愛の使者」を輩出しました。慶応元年(1865年)、上江村(現在の高鍋町)で生まれた石井十次*28です。高鍋藩士であった父万吉は、男の子がなかなか生まれないので、比木神社まで、真冬に三週間、毎朝祈願の裸参りをしたといわれています。十次は、旧明倫堂の高鍋島田学校、私塾晩翠学舎、東京攻玉社に学んだ後、友人達と、小丸川河畔の開墾を試みたり、小学校で教鞭を取ったりしていましたが、十七歳で岡山甲種医学校に入学します。後に徳富蘇峰(とくとみそほう)が、「鉄をも溶かす情、山を動かす所の意志の力」と述べているように、果敢な少年時代の十次を培ったのはまさにこの小丸川の風土であったといえます。この医学校時代は、夜にはあんまをして学資を稼ぐなど大変苦学をしましたが、またキリスト教会で洗礼を受けたのもその頃のことでした。岡山県の診療所で代診をしているとき、四国巡礼帰途の貧しい母子に出会い、一人の男の子を預かったことが十次にとって一つのきっかけとなりました。孤児救済事業です。半年後には禅寺の一角を借り「孤児救済会(後の岡山孤児院)」の看板を掲げていたのです。「世の中の人々にも天父の愛子であり、同胞兄弟である。」との趣旨書がその時書かれています。二十三歳の時、医書を焼き、この児童救済に専心しましたが、その後東北地方の凶作の時には院児数が千二百人にもなるなど各地でも活動を行っています。また十次は「い縮せる孤児の精神を鼓舞すると同時に美的観念を与ふる」といいで、種々の実業や文化活動も同時行っています。その後農業的労作を柱とした里親村をつくるべく、茶臼原に移転を始め、十次は志なかばでたおれましたが、その精神は様々な形で後世に引き継がれています。
このように、十次は、福祉という言葉さえなかった頃、我が国では未開拓の孤児救済という事業に一生を捧げ、今では「孤児の父」と呼ばれています。
幼年の頃、天神さまのお祭りで縄の帯をしめていた友が仲間に入れてもらえずしょんぼりしていたのをみて、真新しい母の手織の自分の帯ととりかえたてあげたといいます。そして母も帰ってきた十次を見て逆に励ましたとの話が残されています。この思いやりの心は、家族の愛を語りついできた小丸川の里で幼少時代を過ごしたからこそ育まれ、十次は里親制度という福祉制度を進めることを考えたのかもしれません。
こうして福智王子の死後も、小丸川の里は人間的愛を育む場所として選ばれ、また深い愛を持った人間を輩出し、着実に愛に満ちた里としての発展を続けています。
そして最後に、暴れ川小丸川がどうなったかもお話しなくてはなりません。福智王子が願ったように、小丸川の里人が幾度となく氾濫する小丸川に決して屈することなく、挑み続けたことを・・・。
小丸川が流れ込む木城・高鍋の扇状地は、目の前に小丸川が流れているのにも係わらずどうしてもその水を利用することができませんでした。川からの水をとるために堰をつくっても、暴れ川にすぐ流されてしまうからです。
しかし、この地に水を引いた人がいます。長友勘右衛門 *29です。勘右衛門は、石河内の人で、小丸の西部から東方の耕地にも用水路を造って水田にしたら、たくさんの米がとれると常々思っていました。しかし、水路を開削する良い案がありません。そこで、比木大明神に祈願をかけようと思い立ち、真心をこめ身を清めて百箇日の祈願を始めます。すると、百箇日の満願の暁に、大明神のお告げがありました。それは、太平寺川の上を水源地として、通水の順路に至るまでの手に取るような教えで、勘右衛門は眠りから覚めると、ただちに現地に行き確認すると、その教えは一々符節をあわせるかのようでした。勘右衛門は早速願いが叶えられると信じて、藩主に大明神の教えをつぶさに述べ用水路開削のことを願い出ました。
時の藩主種長は、それを許しただけでなく勘右衛門に事業遂行の任を与えました。
勘右衛門は、感激おく所をしらず、昼は出でて工事を督励し、夜は家人が眠るのを待って、ご神託による水路の方向や開削の方法など綿密に定め寝食を忘れ励み多年の歳月を費やしてついに用水路を完成するに至った *30とのことです。
そして、小丸川からの取水に何度も失敗した水路がありました。この広谷用水路*31は、はじめ木城町の川原を取水口とし、比木の西の岩盤をうがって小丸川の水を通し岩淵から東への灌漑を図るものでしたが、岩石ばかりで工事がはかどらず、中止をくりかえしました。当時の技術では、1寸掘るのに一日かかるありさまで、まさに「絶望の井出」と言われていたほどです。しかし、長年の苦難にも屈することなく挑んだ結果、とうとう山口弘康*32という人物が中心となって明治四十四年(1911年)、比木神社で起工式を行い、広谷用水路を完成させました。当初の着工からすると二四五年後のことであります。
この瞬間、人々を困らせた暴れ川小丸川の水は、里を潤す恵みの水となったのです。
そして今、小丸川の水は土地を潤す恵みの水であるばかりでなく、エネルギーを生みだす恵みの水になろうとしています。石河内につくられている小丸川発電所は、小丸川支流の大瀬内谷川につくられた上部のダム湖にくみ上げられた水を、六五〇m下の小丸川本流につくられた下部のダム湖に落とすことによって発電する純揚水式発電所で、九州で最大の発電量と落差を誇ります。小丸川の水は、九州で最大のエネルギーを生み出す恵みの水となるのです。
福智王子の願った通り、小丸川の里は愛に満ちた里として小丸川の恩恵をうけながら今日に至っています。
「小丸川の水を育んでいるのは豊かな自然である。その自然を大切にし、自然と共に生きていかなくてはならない。」
という言葉を、決して忘れてはならないのです。
福智王子の一家も、天からこの小丸川の里をいつまでも見守っていることでしょう。
26)[武者小路実実篤と石河内] 明治18年5月12日生、昭和51年4月9日没(1885-1976)。「白樺」を創刊した小説家。大正7年11月14日同士とともに木城町大字石河内に「新しき村」を開村。「あたらしい生活に入る道」に賛同した者と共に、その理想の実現のため土地を求め、石井十次が開いた茶臼原孤児院に行き、津江市作に出会い当地を紹介される。実篤著の「土地」では、白樺派理想郷の選定で、「其所はすり鉢の底の様に、四方高い山に囲まれ(中略)それの三方をかこんで流れる川は昨日見た川の上流で更に美しかった。(後略)」と、選定条件に小丸川の姿が重要な点であったと記している。
27)[河内山清八] 貯水池築構の開祖と呼ばれ高鍋藩の土木事業に貢献した。最初の谷坂堤では、主水路を低いところに通じ、支水路を高いところに通じて支水路の余水をまた主水路に注ぐよう設計したり、主水路のところどころに膨らんだ箇所をつくり、馬や草野洗い場として利用することや鎌研ぎように橋は串間の砂岩を用いたりと創意豊かであった。
28)[石井十次] 慶応元年4月11日生、大正3年1月30日没(1865-1914)。高鍋町の下級士族の家に生まれ、「福祉」という言葉さえ意味にすることの少なかった明治20年、22歳の若さで孤児救済という世界的にも先駆的で未開拓な事業を始めた。医者を志し岡山で学んでいたが、聖書の「人は二主に仕ふること能はず」という章句に感激し、6年間学習した医書を焼き孤児教育に専念した。家族制度や里親制度を導入し、また、里親村(散存的孤児院)をつくるべく木城町茶臼原に移住した。十次の死後孫が「石井記念友愛社」を設立し、現在に至っている。
29)[長友勘右衛門] 出生没年不群。慶長、元和のころ藩主種長に仕えた。初め木城町石河内の福永神社付近に居住していた。比木大明神の神託に従い調査。設計書を添えて水路開設を進言し、自らも成就に勤め完成させた。用水はかんがいだけでなく防火、日常用水として高鍋で大変喜ばれた。藩主はこれを賞し、高鍋町下町に屋敷を与え、子孫代々住み永友姓を名のっている。お里廻りでは、「太平寺井手祈祷」として神輿を迎える。
30)[大平寺用水路]太平寺橋上流に堰を設置し、宮田川を水源とし、そこから約50メートル素堀トンネルで通し山裾を通している。畑田まで約5キロの幹線が延び八本の支線で、今日尚約120ヘクタールの受益面積を誇る。円福寺横の堰から同川を取水する中鶴用水も勘右衛門創設といわれている。まで約5キロの幹線が延び八本の支線で、今日尚約120ヘクタールの受益面積を誇る。円福寺横の堰から同川を取水する中鶴用水も勘右衛門創設といわれている。
31)[広谷用水路] 木城町川原から小丸川の水を取水し木城・高鍋両町に及ぶ広大な水田を灌漑する。明暦3年(1657年)12月着工、七代種茂は特に資材を投入し工事を進めたが完成に至らなかった。明治22年山口弘康が中心になり再び着手し、大正元年6月通水に成功した。昭和4年7月、宿の坂から宮越まで水路延長を実現した。
32)[山口弘康] 慶応元年5月16日、木城町椎木の士族の家に生まれる。昭和7年11月17日没(1865-1932)。幼い頃から頭脳明晰であったという。監獄本署(宮崎刑務所の前身)や小林区署(営林署)などの職員を経て、大正元年に「絶望の出井」広谷用水路を、私財を投げ打って完成させた。完成当時はその恩恵を受けた農家が田一反当り玄米一升を山口に贈る取り決めになっていたが、時が経つと人々の意識は薄れ次第に米は集まらなくなっていった。ちなみに石井十次とは同じ年生まれで、幼なじみだった。